告げた言葉が、白く星空に昇っていった。 君の白い吐息 昔の夢を見た。まだ頬にも鼻にも傷を作る前のころ。 物心がついた時には、たった一人の姉は、もう自分だけのものではなかった。「柱」としてその身をセフィーロに捧げていた。いつも穏やかに微笑んでいたが、それは望んでそうなったわけではないようで、自分にはそれが哀しかった。 姉弟だというのに、時間を共有できることは稀だった。そこらじゅうを遊びまわりたかった自分には、穏やかすぎた姉では物足りなかった、というのも当時の本音だった。幼かった自分が恨めしい。 夢の中で、自分はいつもよりも大きな木に登ろうとしていた。小さな手に、汚れた白い服。精一杯手を伸ばす小さな自分の背中を、意識だけの自分が後ろから見ていた。 「王子、危ないですよ」 下を見れば、侍女が心配して見上げている。金の髪を後ろで束ねている。優しく微笑む人で、当時一番好きだった。名は――――――なんと言ったっけ? 「しんぱいするな!届くから」 足を踏ん張って、一番低い枝に手をかけた。嬉しくて声をあげる。 この後のことは、よく覚えている。今まで何度も同じ夢を見た。一番高いところまで上って、そこから見える景色がいつもと違うことを知った。より空が近く、より遠くまで見える。飛ぶように地面まで降りて、姉を探しに行った。今まで登れなかった木に初めて登れたこと、そこから見えたもの、姉も見ると良いと思ったこと――――――ごちゃごちゃした喜びを全部抱えて、姉に告げるために。 ――――――フェリオも、大きくなったのですね。 まとまらない言葉を姉にぶつけたら、いつものように穏やかに笑った。いつもよりも哀しそうな瞳で。 ――――――お祝いに、これを差し上げますね。 両手に握ったのは、金色にひかるリングだった。 ――――――いつか、大切な人が―――…… その言葉の意味を知ったのは、それからずっと後のことだ。城の外に抜け出すことが多くなり、以前以上に姉と過ごす時間が減った。新しく神官が任命されたことは日々の騒がしさの中に紛れてしまい、それよりも剣技に夢中だった。 だから姉がどんな瞳で神官を見ているか――――――それを知ったのは、城には寝るためだけに帰るようになったころのことだ。自分だけの剣を手に入れて、有頂天だった。姉に、聞いてほしかった。 だが、庭に佇む姉は、自分には気がつかなかった。見たこともないほど綺麗な目で、ザガートを見ていた。 ――――――姉上は、あの人を。 思わず耳にゆれるリングに触れた。すっかり肌に馴染んだピアス。これをくれた時、姉は何と言ったか。 ――――――大切な人ができたら。 姉は、この国そのものだ。美しく、穏やかで、いつも暖かい。誰のものでもない、皆のセフィーロ。皆平等に愛するエメロード。 声をかけずに、踵を返した。 自分は何をしていたのだろう。剣を手に入れ、腕を磨き、姉を守るつもりでいた。一番守るべきものは見過ごしたままに。 姉以上に大切な人など、できるはずがない。姉が欲しても手に入れられないものを、自分が望めるはずがない。このリングはずっと自分の耳に収まっているだろう。 あの日までずっと、そう信じていた。沈黙の森で、彼女に出会うまで。 木の上に立ち上がった自分の手は、もう幼くなかった。姉の後を次いで、違う形で国を護るための手。見下ろせば、自分を見上げる不安げな侍女の顔は、風のそれにかわっていた。 「リングはあの方に差し上げたのですね」 頭上から声をかけられた。驚いて振り向くと、記憶にしか残っていない姿がそこにあった。 「姉……上」 「あの方がフェリオの大切な方ですね」 ドレス姿で木に腰掛けるエメロードは、記憶に残る印象と異なっていた。それが何なのかがわからない。 「……はい」 「でも、大切なことは言ってませんね」 首をかしげて、フェリオを蒼の双眸が見つめた。 いたずらをしたとき、こんな瞳によくぶつかった。困ったようなひかりがゆれる。 「大切なことは、きちんとお伝えなさい」 でないと、といって、エメロードは指を鳴らした。ぱちん、という音と共に、風が姿を消した。 「いつまでも傍にはいてくれませんよ」 「――――――……っ!」 目をあけたら、肩が寒々しかった。夜気に触れて冷えている。セフィーロの夜は、日中に比べて冷える。特に、フェリオの部屋は城の上部に位置しており、夜窓を開くと冷たい空気が侵入してくる。 今まで目の前にあった光景が夢だったことを知る。やわらかな笑みは、手を伸ばせば届きそうだった。 仰向けに寝返って、天井を見つめた。王となった自分の部屋。そうだ、昨日、魔法騎士たちが訪れて―――――― ふと、抱きしめて眠ったはずの存在を思い出した。自分の隣を見ると、彼女はいなかった。 ――――――いつまでも傍には、 「フウ……?」 部屋の中は闇に静まり、自室であるのに始めて見るもののようだった。 ふとカーテンの向こうに、彼女の背が見える。 初めは、姉と似ていると思った。 金の髪だけではない。沈黙の森で、穏やかに笑う彼女は、その奥に自分の知らないものを隠していて、その姿が姉を彷彿とさせた。隠しているものは違っていたとしても、それはどこか痛々しく映った。この少女も、心のままに笑うことができないのか。 だが、礼を言って微笑んだ彼女は。 姉に向けるものとは違う感情をもった。強く惹きつけられて、目を逸らすことができない。くるくるとかわる表情に、覚悟を決めたその翠のひかりに。 だから、二度と外すことはないと思っていたリングを彼女の手に握らせた。 テラスに立つ彼女にそっと近づいて、後ろから抱きしめた。びくり、と小さく動いて、それから風はフェリオを見上げた。出会ったころよりも小さく感じるのは、自分自身が変わったからだ。 「いきなりは、ずるいですわ」 「何してるんだ?」 すっかり冷えている体を包む見込む。いつから彼女はここにいたのだろう。自分の体温を分け与えるように、フェリオは風を抱いた。 「目が、覚めてしまって……」 視線を前に移して、風は俯いた。 星明りだけでは判別できないが、おそらく真っ赤な顔をしている風に、フェリオは微笑んだ。 何年共にいても、彼女は変わらない。抱きしめてもキスをしても。こうして、肌を重ねた後に自分を見上げるときも。頬を染めて、自分を見てくれる。それは姉がかつてザガートに向けたふたつのひかりに似ている。 「……黙っていなくならないでくれ」 風のうなじに顔をうずめるようにしてつぶやいた。思いのほか寂しく響いた。夢の名残が瞼の裏に残っている。 「フェリオ」 風が名を呼んで、体をフェリオに向けた。星空がうつって、いつもよりひかりを多く含む瞳が彼を見ていた。 ふわり、と。 花がひらくように、風が笑った。フェリオの頬に手を添える。古い傷に、彼女のぬくもりを感じた。 「ここにいます。どこにも行きませんわ」 その言葉は、温かい飲み物のように、溶けるように自分の中に落ちていった。ぬくもりを後にひきながら。 ――――――風は、とっくに覚悟を決めてるわよ。 海の声が聞こえた気がした。 ――――――風を幸せにする覚悟ができてないのは、フェリオじゃないの。 反撃できなかったのは、真実を含んでいたからだ。 異世界に済ませて、家族や友人と引き離して、彼女は幸せだろうか。自分は忙しく、寂しい思いをさせるかもしれない。彼女に覚悟を決めさせる権利は、自分にあるのだろうか。 それは紛れもない優しさだが、その優しさは自分を逃がすためのものだ。幸せにする、と言い切る自信がない自分を隠すための。拒まれることが怖くて、風の為、と装って言い出さない。 でも、本当は傍にいてほしい。となりでその笑顔に触れていた。自分だけを見てほしいのだ。 何も言わなくても傍にいてくれる、誰よりも強い彼女に甘えている。 ――――――ああ、そうか。 風に自分の唇を重ねて、フェリオは夢を思った。やわらかく、暖かい感触に、彼女を離したくない、と思う。 ――――――姉上は、お叱りにきたんだな。 夢の中でエメロードの印象が違ったのは、その笑顔が姫としてのものではなく、弟を心配する姉のものだったから。フェリオだけを見て、彼だけのために心を傾けていた。 「……どうも俺は、姉上にご心配をおかけしたらしい」 風の細い肩に手を乗せた。不安げに自分を見上げる彼女に微笑む。 「夢で、お叱りを受けたよ」 「エメロード姫に……?」 「最近叱られてばかりだ。この間はウミにこっぴどく怒られた」 昨日もかるく無視されていた気がする。海は、光や風のこととのあると、誰に対しても容赦がない。 「何か、あったんですか?」 心配そうに瞳を揺らす彼女は、先ほど夢の中で見た表情と同じだった。 これからも、風にはこんな顔をさせてしまうかもしれない。できるだけ笑っていてくれ、なんて、かつて彼女に告げたけれど、こんな表情をさせてしまうのはいつも自分だ。 それでも、風の笑顔を一番近くで見ていたい。自分の手で、笑わせてあげたい、と思う。 黙って風の左手をとった。薬指のリングに唇を落とす。風が驚いて落とした吐息が、白くなって星空に消えてゆく。 「一緒に、暮らしてくれないか」 彼女が動きを止めた。問い返すようなふたつの翠が、吸い込まれるように深い色をしている。 「覚悟を強いているのはわかってる」 やわらかな巻き毛に触れた。その感触が愛しい。 「でも……一緒にいたいんだ」 それが叶わなかった姉。リングを渡したとき、自分も同じ道筋を辿るかもしれないと思っていた。柱の弟である自分と、魔法騎士とは、本来交わるべきではなかったのだろう。それでも、その思いに身を焦がした。 自分は違う道を選びたい。フウと、この国で一緒に行きたい。姉が命をかけて護ったこの国で。 風が口をひらいた。 「私などが、……お傍にいてもよろしいのですか?」 この国の者でもなく、もはや騎士でもない。そのことを案じて、風はいっているのだろう。 「お前でいいんじゃない」 両腕で風を閉じ込めた。この細い肩に、いつも自分がどれだけ支えられているか。 彼女を幸せにできなくて、何が王だろう。民を護ることなど、到底できるはずがない。できたとして、それは意味を持たない。 「フウじゃなきゃ、だめだ」 妃になってくれないか。 風の手が遠慮がちに背に回った。ぬくもりを通して、彼女の存在を感じる。 はい、とくぐもる風の返事と、交わされる口付け。白い吐息が天を舞う。 新しく生まれたセフィーロの王妃を祝うように、星がひとつ夜空を駆けた。 |